昭和45年12月04日 朝の御理解
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落着いて静に願え。」
お伺いする時には、取分け平気でなければならぬ。落着いて静に願えと。是はもう相当信心が進む、ね。直接神様にお伺いでもすると言うのですから、是は相当信心も進んでからの、大体御理解だと思いますが、私はあの今日は心は神信心の定規じゃによってという所をね、聞いて頂きたいと思う。お互い信心さして頂いておって、自分の信心がどのようなものかという事を、分らせて貰うという事は大事な事ですから。
言わば信心の所謂バロメーターとでも申しますか。おかげを頂いていきよるなと、信心が段々、身についていきよるなという事が分る訳です。そこでね、私はあの思うのですけれども、例えばこうして毎朝朝の御祈念にお参りをなさる。一心不乱に御祈念をなさる。その後にこうして今日は、所謂御理解を頂かれる。まあ私は神話と言うてもいいですねえ。神話と言うのは信心じゃなくて、神の話と思うてもいいと思うですね。
何故ってあの私が私が自分で、私自身話しよるとじやないと、いつも思うんです。勿論神様にヒントを頂いた事、そんならこの御理解を教典を頂くにしましても、今日はいっちょいやもう、昨日から準備しておって、明日はいっチョ是ば話そうと思うて、話の材料をかき集めておるという事は、ひとつも無いのですよ。ね、ここにお届けを終ってから、約十何分かの間にこの教典を開かせて頂いて、神ながらな、こことこう頂くところをお伝えするのですから。もう正しく私は神話と言うてもいいと思うんです。
所謂久保山先生は、神語りと仰っておられましたですねえ。ご自分のあの手帳なんかに、神が語ると言う事を表紙に書いておられますね。神語りですからその神語り、神さまがいうならもの言うて下さっておる程しのお話を頂いてです、もし何にも残らなかったとするならね、これは私はこんなに御無礼な事はないと思うですね。御粗末なことはない。と言うて、んならお話がその素晴らしい、面白いお話であるとか、お話が所謂その話術にたけておられるとかという訳じやないのですしね。
所謂私のま、いうなら口から出まかせのやうなお話ですから。よっぽど心して頂きよらんと、神語りが神語りにならんで、なんやらかんやら分らなかったお話だったに終ってしまうのですね。だから私はそのお話の全部をまたなら理解出来ない、ければならないという事もないと思うんですよ。ね、そのお話の例えば三十分毎朝こうして頂きますわね。その三十分のお話の中に、その一分か二分かの中に出た。
アッという間に言うた私の言葉の中からひと言でもです、ハッと自分の心に打つやうなもの、ああそうだとこう感じるもの、私はそれがあればもういいと思うです。同時にお互い信心の稽古をさせて頂くのでございますから、言うならば新しい言わばこの九十八節なんかも何十回頂いたか分りませんよね。けれどもその何十回頂いたか分らんけれども、いつも違った角度から、このなら九十八節を頂く訳なんです。
ですからもうそれをその深めていく、極めていくという事の意味合いに於ては、どうでもやはり皆さんがこうやって教典を開かれて、手帳を開かれてそれを書きとめていかれるようにです、これはもうまた絶対必要だと思います。けれどもその中に、自分の心に残るもの、自分の心を打つもの、ああそうだと思うもの、それがその中の一分間のお話でもいい、アッという間のお話でもいい、ね、
そういうものがです、ね、私は心にいわばキャッチ出来るような心。ね、それが頂けれる私は信心、そういう信心の状態の時ならばですね、心は神信心の定規じやによってとおっしゃる、ま、神信心の、言うなら信心の心というものがです、ね、定規に当てはめて大体間違いがない時だと私は思う。今日の御理解のあのひと言はと、頂けれるものがあれば。けれども今日の御理解はどげな御理解じやったのちゅうごたることでは、もういよいよいけませんしね。
分る事は分ったばってんなら心に、はあ今日はこれを一日思い続けさせてもらえると思えれるようなものがです、あなた方の心の中に残っておるならばですね、あなたの今日の心の状態はまずまず、ね、定規でおし測ってみても、狂いがない時であるというふうに思わなければならん。思うていいと思うです。又はだんだん御理解のいわゆる聞き上手と言うかね、巧者になって参りますと、はあ今日の御理解は神様がここんところを教えようとなさっておられるなと。
言うなら今日の御理解の真意、大意とでも申しましょうか、ね、大意がピシヤッとつかめれるようにもならなければいけません。今日の御理解のポイントになるところはここだったと、しかしこれは段々聞いていきよれば分ってくると。今日私が言うのはそういう意味もですけれども、そういう事じゃなくて、それは枝葉の事でもいい。ね、ここを分ってほしいと強調しておることではなくてもです。
枝葉のことでも良い、自分の心に今日一日これが忘れられない、これを思い続けさせて頂けれるといったやうなものがね。あれば私は今日の御理解から心は神信心の定規、定規で測っていけば、はあ今日は間違ってるやや間違ってなかったかなと思うていいと思う。しかもそのね、はぁあそれだと思うそのことがねおかげになっていくんですよ。信心ちや、もう霊妙不可思議ですね。
真にはぁあ有難い、それが私が頂かにやならんところであったと、心の中んに残り、心に言うならば、一日それを忘れられない程の、それが言葉でありするならね、おかげを受けるんです。そこに話を聞いて、助かる道というのがある。話を聞いて分って助かるというのじゃなくて、分らんなりにでもですね、枝葉を聞いてはぁ有難いと感じたら、もうおかげになる。話を聞いて助かる道なんです。ね、
例えば、教祖の御教のその深さ広さのなかといった事は、もう限りがない程に深い広い内容を持っておりますから、なかなか勉強しても勉強しても、まだ足りないという思いが致しますけれど、ね、それが分らなければ、おかげが頂けんというのじやない。話を聞いて、はあ、有り難いとどこか感じたら、もうそこからおかげが受けられる。真に有難いと思う心が、すぐに霊験のはじめになっていく。心は神信心の定規。 昨日は親教会の御大祭で、皆さんもご参拝になられました。例によって杉尾先生のお説教でございましたよね。大変高度な御信心をしかも分かりやすく、あの様にお話下さいました中にね、もう是は枝の葉だろうとこう思う様な事を私の心をいわば、それこそつかまえて、外さないと言った様なものがあった。もう私はそれひと言聞いて感動した。忘れちゃならんと思うて、すぐ隣におられた高橋さんに手帳を借りて控えた。
けれそももう控えたときにはもう私の心の中に入ってしまっておったから、もちろん忘れもしませんけれど。それはねこう言う様な事でした。これは誰かの句です俳句です。「元日や何はなくとも親二人」という、お話のあい間にちょっとそれをおっしゃった。元日や何はなくても親二人。私はこの句を作った人はもう大変、親孝行の人であったにちがいないと思うのですよ。
何がなくてもね、両親がここに健在でおるということだけで目出度いんだと、有り難いんだと。日頃どの位、この両親の健康を願っておられ、両親の喜ぶことを願っておられ、ておられる人が、これは作られた句であろうかと思います。ね、そして私はもう信心の根本、そういうところ迄、その句からそういうことを感じさせて頂きました。どんなに巧者な事を言うてもですね、どんなに素晴らしい事が分ってもです、熱烈な修行がたとえば出来ましてもです、ね。
本当に親に安心してもらわなければおかん、親に喜んでもらわなければ、親に喜んでもらうことならもうどげなこっつでもさせてもらおうという位なですね、心が根本になからなければ、金光様の御信心は絶対、おかげ頂かんです。私がこれはおかげっていうのは、いまいうそのほんとに神様の御信用を頂く程しのおかげの意味ですね。それはどげな悪人だって、だれだってお取次を頂いてから、その頂くおかげていうのは誰でも頂けてますよねえ、目先目先のいうならば。
けども本当に神様のお徳とでも言おうかね、御信用でも受けるという程しのおかげはです、ね、もうやむにやまれん思いで、親に安心してもらいたい、親に喜んで貰い」たいと言う様な心の人でなからなければ、おかげになりません。勿論信心をさせて頂いて、愈々本心の玉を研ぎ、愈々日に日に改まって、かぎりなく美しゆうならせて頂く事に精進するならね、是はもう自ずとそういう心は起ってくるものです。
これは親だけではない、その人に対してでも、そういう心が強くなって参ります。だから私はここで初心の方が色々お願いにみえる時に、必ずこれは言う事です。親不孝したいと言う者はいません。けれども親孝行ばしようごとして堪らんちゅうごとあるものはおりませんち。だからねひとつ今日から本気で、親ば大事にさして貰わにやおられん心を願いなさい。お先祖様を大事にしなければおられんという心を願いなさい。
そういう心になる事が神様の心にかなうから、そこからおかげが頂けます、という風な意味の事を申します。ですから勿論、親に喜んで貰いたいとか、親に安心して貰いたいとかとという事には、又大変それは深さが有りますね。親を喜ばせるというだけでもね、これは昔吉木先生から聞いたお話ですけれども。あちらのご信者さんに大変おかげを頂いて、成功された商売人の話を聞いた事があります。
お母さんに所謂隠居所を作ってあげた。所がその大して喜びなさらん。呉服屋さんだそうですから、時々京都に行かれる。それで家は神様を御まつりし、改式までさせて頂いて、こうしてお祭りさせて頂いておるのだから、よもやと思うけれども、ひよっとして年を取っていかれてから、矢張り昔のその御仏壇でも欲しいのじゃなかろうかと思うて、その京都から見事な仏壇を買うてきてやんなはったら、腹かきなはった反対に。
金光様の信心をさせて頂いて改式までしたもんが、どうしてこんなもんがいるか、ちゅうてから腹かきなさった。着物も作ってあげるあれもして上げるけれども、喜びなさらじゃった。ですからね、私はその親に喜んで貰うと言う事でもね、問題は本当に喜んで貰えなければ駄目なですよ。安心して貰うと言うても、本当に安心して貰えなければならんのですから、それは非常にやっぱその深いものが有りますよ。なでさすりしよります。はあ、着物を買うてやりよります。ね、立派な家に住わせております。
それで親に安心させとる、喜ばせとるという考えでは、まだまだという事になります。ある時お店が忙しかったから、おばあちゃん済みません、というてからその嫁さんが、済みませんけど孫ばしばらく見よって下さい、ちゅうてからあのお願い行ったらもう、おばあちゃんがもう大変喜ばれたという話じゃった。お婆ちゃんの願いは、そのいわば隠居所に閉じ込められておると思うた。
ただ良いものや良いものを食べさせて貰うたり、着せて貰うたりする事だけでは全然有り難いことはなかった。若い者たちと一緒に、お手伝いの一つでもさして貰う事の方が、喜びじゃったというお話を聞かせて頂いたが、こりゃまあ色々それぞれのそれこそ観点が違いますからね。親の親はまた喜んどりゃこうちやりゃ、喜ぶちゅう親もありますからね。うまかもんさえ食べさせりゃ、喜ぶちゅう親もおりますからね。
だから親の程度にもよる事です。ですからそのへんの所はですね中々難しい。けれども問題はそこが分らん、どげんすりゃ喜ぶか安心するか解らんけれども、どうかなして親が喜ぶ喜ぶ様な生き方にならして貰おう、親が安心する様な子供に私にならして頂こうという、そういう思いが切実に皆さんの心の中にある時ならばです、ああた方の信心の心の状態というものは、定規を置いてもきちっと合っとる時だと私は思うです。
もうよかよかちちから、もう親の事はほうからけとる、信心しよってっちや、そげな人は沢山有りますよ。親不孝はしよらんばってん、親孝行はしよらんちゅうとが。もうもううちの子供も大丈夫、安心しかもこんなに親孝行してくれると言う様にですね。親が本当に喜び安心してくれるおかげ。それが段々本当な事になって参りまして、天地の親神様にです、日々が親神様の心が分り。
親神様のお喜び頂けれる生き方にならせて頂こう、どうすりや真の信心が分るじやろうか、どうすりや親神様が喜んで下さるであろうか、安心して下さるであろうかと、それを探し求めていく、追求していく信心。ね、様々な難儀な問題なら問題を通して、神様の御神意は、な辺にあるであろうかと、それを追求する心。そういう信心の心の状態の時には、あなたがの心の状態というものはです、ね、そこに定規をおし当ててみても、間違いのない時であると、私は思います。
昨日は矢次さんの所の霊様の式年祭がありました。矢次さんの兄さんに当たられる方、四十五年の式年祭です。御承知の様に、矢次さん病気で入院してございますから、大体家で親戚でも呼んでこうしなければならんのだけれど、ここの一時のご祈念か四時のご祈念かに合わせてして頂きたいと。して自分な病院から帰って来て、ま御直会かなんかはこちらに内田さん辺りに、お願いしてさしてもらうと言う事であった。
それが息子さんが勤めの具合があるので、夕方にして頂きたいちゅう言う事になって、とうとう夕べのもう遅くなりました。八時位になりましたでしょうか。そしたら樂の先生がいま、何日おきに来て頂きよりますが、ひょっこりあの宮原先生がみえた。「あら、今日は楽の稽古でしたんね」丁度時間、ここ一緒になる訳ですよ。まあとに角お風呂に入って下さいと言うて、お風呂へ私も入っとりましたから。
入らせて頂きながら思うた事は。はあ今日はひとつもう、今日の楽は全部テープにとりたいち言いよんなさったから、もうそれこそあのここで本番をやって頂いて、それをテープに取ったら良かろうと思いましたから、それからすぐあの原さんに電話かけてから、早く来る様に電話を掛けたり、そうするうち東さんも見えましたから、楽人が琴、太鼓が三人と、男の楽人さん方が三人ですから、六人で奉仕さして頂いた。
まあこんな賑やかなね、あの霊様のお祭りは初めてでした。笙、七力まで入った。もう本当に矢次さんの思いとは裏腹に、もう愈々反対の事になって来た。そしていわば矢次さんの心のなかにですね、去来するものなんです。お祭りを頂きながら。もうなんと有り難い事に成った事じゃろうか、今日霊のお祭を受けておる兄は、もう久留米の石橋先生からもうしきりに、お道の教師になれ、お道の教師になれと言うて勧められたけども、それを言う事を聞かなかった。
先の方が見えておられた。とうとう受ける事が出来ずにです、亡くなった兄だったが、本当に今日は石橋先生、言うなら御自分も久留米の楽人さんでございましたから、眞澄先生当りのお喜びも頂いておる事であろう。眞澄先生ち言や、もう九州の楽を最高の所まで引上げなさったという程しの楽の功労者です。石橋先生の二番目の息子さんです。ですからその眞澄先生の愛弟子と言われた宮原先生が来ちやる。
もう本当に眞澄先生のそれを七力聞かせて頂いておるように有難かったと、こう言うておられる。私も御霊前に出らせて頂いて、一番初めに拝ませて頂いたのが、久留米の初代に、二代光雄先生に、眞澄先生じやった。そして矢次の霊さん達を次々と、お祭りを受けられるという程しのことであった。それを受けられたのは、むしろあの久留米の関係の先生方であった。ね。
これが一人一人皆さん方が言うても分らん事だから、けれども私はもういやが上にも心が有難うなってきた。ね、それで私はお祭りが終ってから、皆さんに御挨拶させて頂く時に、金弥さんと金弥さんの嫁ごに特に聞いて頂いたんですけれども、いわゆる今日、私がね、感銘を受けてきた、元日や何はなくても親二人という、そのお話をさせて頂いた。金弥さん、もう本当に金光様の御信心にはね、もうこれが根本になったところからの信心じゃなからなければ駄目だと。
又これが根本になりや、絶対なにはなくともじやない、もう絶対おかげを頂けれるがと、私が。ね、親に対する所の所謂、そのやむにやまれん思いがつのって、信心させてもらいよる。信心する事が親が喜ぶ、信心する事が安心、親が安心してくれる。霊様が喜んで下さるであろうと言う様な信心が根本になっての信心。あの人も楽の稽古をする事になってましたけれども、どうもその熱心にしない。
だからねどうでんひとつ楽の稽古でも熱心にさして頂いてから、神様に喜んで貰える、親に安心して貰えれる、ひとつ信心になんなさいと言うて、まあ聞いて頂いた事でした丁度、そのお祭りを奉仕させて頂く前に、昨日、私久留米の親教会の大祭へ出かけようとしておるところへ、こういう紹介状をあの持ってみえられた方があった。これは金光教芸備教会の教会長先生、一雄先生というて有名な偉い先生がおられます。
いわゆる佐藤宿老のお孫に当られる方ですね。佐藤宿老といや、教祖の時代のいわゆる三代金光様の奥様のお父様というた方が早分かりがするかもしれんね。そういう先生から、私宛の手紙が来た。九州へ行ったら、合楽と、どこ教会でした?久原、久原教会に行けと言われて参りましたと言うて。それがね、佐藤宿老を一番初めにお導きをされた方の曾孫に当る方。現在、芸備教会で役員総代をなさっておられる。
そして大きな紡績のようなね、織物会社をしておられる。初代教会長の信心を導いた、ドヒヤキチ氏のひ孫に当たられる方。しかし昨日それを秋永先生と二人で話しました。有り難いなぁと、ほんとそういう偉い先生がね、九州行ったら合楽へ寄ってこいと言われる、そのたったふたつの教会の中にひとつはいっとる、そういうふうに見て頂きよる事は、こりゃ合楽のごひれいじゃというてから、ま有り難いと思いました。
ところが私が親教会に、行こうとしておる時だもんですから、お話も出来ません。ですからそんならそん今から、久原の方へ参りましてから、また帰りに寄せて頂きますからと言うて、善導寺迄一緒に乗って別れました。その方がこんだ愈々みえておられる。それが又こんだ霊祭をしよる、させて頂こうというその時でしたから、まそのお話も聞かれんされなかったんです。
ならあの迎えに来る車をのばしましてから、十時に迎えに来るようにしましたから、ならそれまで待って頂ければというので、炬燵の間でお茶でもあげながらね、待って頂いた。そうして今言うそういう矢次さん所の本当に感動的な霊祭を仕えさせて頂いた。その有難いものがね、思いで会う事になった。若先生があなたお父さんが説明しなさるよりもね、あのそこの総務をしておられる方の人事の方でした。
見えとるのはだから高橋さんかなんかにお願いしたらどうですかと言うが、そげんおまえ電話かけて、来て貰う訳にもいかんけんでと、言よるところへ高橋さんがやって来た。はあ今迄はタイミングが悪かった。その方の上に妙に。だから私はその方にさあ今からタイミングがたてなおりましたから、素晴らしい事になりますよと言うて、向うの話をまずおいて、私が話させて頂いた。
あなたの所のたとえば、あの社長というのは、芸備教会の言うならば役員総代、しかも芸備教会の一番根本である佐藤宿老をお導きなさったという程しの功労のある霊様。ね、私あのとてもそれがね、人を雇いに見えておるわけなんですよ。だから九州辺げんまでもですね、雇いにみえられるような事じやいけんて。岡山に人間はおらんとですかち。生きた神様を頂いておって、しかも総代までしとって、重役級は全部、金光様の信者、ね、まかないの婦長までも全部、金光様の信者でかためてあるちいうような。
それだけの信心を頂かれ、しかもそういう高徳な先生を、親先生に頂きながら、そういう教会に御縁を頂きながら、九州辺げんまで人を雇いに来なさらなんような事じやいけませんよ。この人を見て下さいち、高橋さんを例にとってね。今度のその、人事のあの新しい店を作られる事の為の、もう置いたものをとるやうにして、おかげを受けられた話をしました。もう感心いってしもうてからですね。
岡山にや人間はおらんとですかと私が言うた。しかも、こういう生きた働きの頂けておる神様を頂きながらです。ね、帰ったら社長さんにも言うて下さい。親先生に話して下さい、ね、と言うて、これは言うならば信心の事ですよと。だからこれからは、あなたの人事の話を聞きましょうと言うてまあ聞いたんです。そういうおかげを頂いて、それを基礎として、なら全国にまた人の募集をなさる事はまたいいでしょう。
そういうおかげをまず頂かなければ駄目だと言うて、こちらの状態をね、あの高橋さんからいろいろ説明して頂きました。まあこれは少し余談になったようですけれどもですね。そして私は、元日や何はなくても親二人という話をもう繰り返しその方にさせて頂きました。お宅の言わば曾おじいさんという方は、佐藤宿老をお導きする程しの方だったんですよと。曾おじいさんの霊様にお願いなさい。
いやお願いなさるち、それこそ御霊様をね、それ元日や何はなくとも親二人と言う様な、親孝行をしなければおかれん、やまんという心でね。私は、霊様におすがりなさったら、おかげになりますよち、と言うて、お話させて頂きながら、今日私一番初めに申しましたように、御理解を頂かせてもらってその枝でもええ、葉でもええ。はあ例えば私がなら昨日、二時間位お話なさった、そのお話の中に。
只私の心の中に、おそらく終生忘れないであろうというのは、元日や何はなくとも親二人という、その御教にも似たやうな句の事でございます。それが昨日一日、私を支配しとります。しかも矢次さんとこの霊祭にそれを、私がもう実感をもって伝える事が出来ました。又、その芸備から見えておられる、その方にもです。その事を私が実感をもって、高橋さんも御一緒に聞いて頂きました。
ですからそのこちらの信心の定規が間違ってない証拠にです。そのキャッチ出来ると、どういうお話の中からでもキャッチ出来る状態のときには、まずまず私共の心の信心のいわば状態が定規を当てても間違いのない時であるという事が、ね、それは例えば意味は分らなくても、ひと言でもよい、自分の心の中にとまるものがあるならです、ね、それが一日、あなたを支持する。いやその心がです、ね、誰にでも、ね、それがつき通っていく程しの素晴らしい事になっていくのだと。
真に有難いというそのひと言が、誰にでも通用するのだと。そしてその方に私は申しました。今日はね、私の所ではもうこの、タイミングという事を非常にやかましく申します。神様の都合、作り合わせ、それにどうした事であろうか、私が善導寺に出がけにあなたがみえたり、今日は夕方と言われたら、言わば夕方ならば何も用事はないはずのが、霊祭が遅れて、ね、又、あなたに、こんな長い間お待たせしなければならなかったという事は、どういう事であろうかと思いよったら、初めて分った。
この霊祭を頂いてこの感動いっぱいの思いをです、あなたにお話が出来るという事がね、私はおかげだったと思うと話しました。だから私が親教会の御大祭を拝ませて頂いて、お説教を頂かせてもろうて、そのひと言を自分の心に頂かせて頂いたという事、それがです私を一日、有難いものをこう支えておってくれた。しかもその有難いというものを、信心の分らない人にまで一生懸命、言わば確信をもって伝える事が出来る。
と言う様におかげはそれにつながっていくものですから、折角こうやってお参りをなさって御理解を頂かれる、その御理解もここで私は言うならばです、言わば神話なんだ、神語りなんだ。それを皆さんが、居眠り半分で頂くような事があっては勿体ない。ようと今日のご理解はどういう御理解じゃったの、と言う様な事じゃ勿体ない。その御理解の内容を分らせて頂くと同時に、今日はこれだというものを何かひと言でもよいから頂いて帰れれる、おかげを頂いて帰らにやならん。
そしてそれが頂けないならば、おや今日の私の心の状態は、定規を置いたら少し狂うておるんだなと悟らせて頂いて、ひとつまともな心の状態を頂かせてもらうことに精進していかねばならんと、ま思うのでございます。今日は特に、ね、心は神信心の定規じやによってと、ね、お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならん、落ち着いて願え、静に願えというておられる。
ですから、これは神様に直接、お伺いをするという程しの事ですから、随分信心が高度な方に対する御理解でしょう。けれども一番神信心の定規というとこの、ところをで、ね、お互いの各々の信心の時点に於てです。ね、自分の心を確めていく為に、ね、はぁ自分な間違いないなと、本当に親に喜んで貰いたい、安心して貰いたいという思いがこんなにも強いから、自分の信心は間違ってないなと思うていいです。
今朝お参りさせて頂いて、御理解を頂かせてもろうて、はぁこのひと言だけはこの様に有難く受けたから、まあ自分の心の定規は、定規を押し当てても狂いがないんだな、これは今日一日の生活の支えにさせて頂こう、又、人にも与えられるその内容のものにまで高めていこうと言う事になるわけではないでしょうかね。どうぞ心は神信心の定規なのですから、所謂バロメーターです。ですからそこん所をいつも見極めさせて頂いて、信心を愈々進めていかねばならんと思います。
どうぞ。